小学生の頃、「キョンシー」という台湾ドラマがあった。
私はそのドラマに夢中になり、お小遣いをためては本を買い、ボロボロになるまで読み込んだ。
吹替の日本語の裏に、主人公たちはどんな言葉を話しているのだろう?と気になり、
わざわざ字幕版のビデオをレンタルし、中国語と日本語訳を書き記し、練習をしていた。
放送のある日も無い日も、時間を忘れて、私はキョンシーに夢中になっていた。
ある日、自宅に帰ると、ボロボロになるまで読み込んだ図鑑や本、中国語のセリフを書き溜めたノートがごっそりゴミ箱に捨てられていた。
ろくに勉強もせず、キョンシー一色の日々を送っていた私に、危うさを感じた両親が、私の宝物を処分することに決めていたのだ。
今でも、このことを思い出すと、ぎゅっと胸が苦しくなる。
夢中になると、なすべきことをせず、あるべき姿からかけ離れる。
私は、感情と行動を区別することが出来ない未熟な人間なのだと、思い始めた瞬間だったのかもしれない。
周囲が男性アイドルに夢中になる学生時代。
私には“推し”がいなかった。長すぎる前髪と襟足を盛んに気にする男性アイドルと、彼らに黄色い声援を送る友人たちを、冗談交じりに冷やかしながら、クールな私を装っていた。
大人になってからも、社会的なブームを起こすドラマやマンガ、音楽からも距離を置いていた。
その思いの背景には、「夢中になると、為すべきことをせず、あるべき姿からかけ離れてしまう未熟な自分」にはムーブメントに乗る資格はない、という考えがあったと思う。
そんな私が、この年末。
キョンシー以来の“推し”を見つけた。
彼らの音楽に触れたとき、隣で見ていた子供が引くほどに、涙が止まらなくなった。
この時の強い感動は、数日たった今も私の心にブッ刺さり、高い熱を保っている。
なぜ、こんなに感動したのだろう?
そんな風に内省したこともある。
だけど、しばらくして、「あぁ、私はただ、とても感動したのだ」という事に気づいた。
そして、夢中になって何かに心を奪われることを避けてきた自分がいることに気づいた。
「夢中になってはいけない」という自虐があることすら、自覚もなかったのに、
強い感動のおかげで、長年抱えてきた生癒えの傷がとうとう癒された。
今はただ、この強い感動を自分の中で保持してよいし、好きなだけ彼らの音楽に触れていいのだと許すことができた。
小学生の息子が、好きな戦国時代の本を読み漁っているとき。
幼稚園児の娘が、折り紙や廃材でおしゃれなアイテムを一心不乱に製作しているとき。
周囲の声など全く耳に入っておらず、夢中になっている。
そんな彼らを見て、私はとっても嬉しく思う。
なぜ?どうして?どうやったら?と自問自答し、本人なりに試行錯誤する姿を見ると、
人が経験を通して学習し、成長し、自分らしさを形づくる過程が目に見える。
夢中になることで、彼らは彼らの世界を広げている。
素晴らしいものを見せてもらえていると感じる。
それなのに、私自身が夢中になることには、長年否定的だったのだ。
もし、もっと素直に、もっと夢中になっていたら、人生は変わっていたと心底思う。
だから、私は、今、そして将来出会うあらゆることに夢中になろうと決めた。
夢中になること、強い感動を覚えることで、掘り起こされた私に出会いたい。
全然クールじゃない私を、探しにいきたい。出し惜しみせず、振り切りたい。
そもそも夢中になれない私には、リハビリも必要だろうけれど。
40歳。私の世界は、きっともっと、どんどん広がっていく。
※ちなみに、久しぶりの"推し"はMrs. GREEN APPLEです💓
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2025/01/22 09:39